2020.06.04 Thu

家で過ごす時間が増えて3ヶ月経った。朝マキネッタで作ったエスプレッソでアメリカンにしながら午前中かけて飲み、午後は紅茶を飲み、夜はノンカフェインの紅茶を飲んでいるのでコーヒーの粉と紅茶の消費量が増えた。近所に私好みのハード系のパン屋さんがないので、ライ麦や全粒粉を買って自分で作るようになった(硬いパンはできるものの、サワードゥやカンパーニュのような表面がバリッとしていて中がふわっとしているものはまだ作れておらず、試行錯誤を重ねている)。1回の練習は1時間、それを週5回行っているアコーディオンはそれなりに弾けるようになってきた。『アイリッシュマン』を見るための準備として、マーティン・スコセッシの代表作、アル・パチーノが出ている代表作、ロバート・デ・ニーロが出ている代表作を見ているが見れば見るほど「見るリスト」が増えていき、この3ヶ月で見た映画は60本になるもののまだ『アイリッシュマン』に辿り着けていない(ちなみに見た作品のうち20本はギャング映画である)。買い物へ出る頻度がどんどん下がり今は週に1回になってしまい、体力がかなり低下しているはずだ。寒さが抜けない初春から急に暖かくなり、その春も通り過ぎて、初夏になった。大きくはないが小さすぎないベランダに野外用のチェアを出して、そこで本を読んだり過ごしている。友達とは LINE の電話で会話した。でも連絡をする友達が減った気がする。私が連絡を入れてないだけ。どうしたらいいのかわからないまま過ごす日々が重なって、そこに満足モ不満もない。映画館は閉まっているが仕方のないことだ、と思う自分に対して精神的に鈍くなっているものを感じる。ニュースや SNS は見ないように努力をしている。でも見てしまう。怒りたくなる。私は怒りたいのだ。怒って、ぶちぎれて、いろんなことに対して、「バカヤロー!」と言い散らかしたい。『スカーフェイス』ラストシーンのトニ・モンタナのように!怒りたいのだけど、怒り方も知らず、怒る術もなく、怒る言葉も思い付かず、画面の上でスワイプを続ける親指が感情もなく機械的に動くのを、ただ眺めている。

差別と特権について考えている。結局いつでも差別のことについては考えているが(何を見ても差別心を見てしまう、だから怒りたくなる、あらゆるものに対して、自分に対して)、Black Lives Matter に関連するニュースを見ていると、特に特権について考えてしまう。

特権はいつでも人についてくる。人と人が関わり、社会が形成され継続する限り、誰でも何らかの特権は持っている。そういう前提の中いちばん最悪なのは、本人が特権に気付かずに無意識に行使することだ。特権を知り悪用することよりたちが悪い。だって無意識なんだから。無意識的に行使した瞬間、差別的行為が発生する。それを指摘したところで、本人の中で理解することはない。その特権を認識してもらわないと、また差別的行為は起きるだろう。特権があり、それを行使し、差別が起きる。私は今まで、人間はどうしても差別的であるという事実に気付けば良いのに、気付いて欲しいと思っていた。今は、自分の特権が何か認識して欲しい、認識したいと思っている。認識して、そしてそれを放棄したい、と。

Black Lives Matter のデモは、アメリカの主に白人による黒人への差別の歴史だ。長い間、その特権を知っている人も、知らない人も、ずっと行使してきた結果のように思う。私も自分の特権を(知ってか知らずか)行使してきたため、それを積極的に放棄していかないとずっと相手を苦しめ続ける。だから特権を知って放棄したい。

でもどうやって?こういうことを考えると何も知らなくて愕然とする。どうしたらいいのかわからず、誰かに助けを求めたくなる。何を知ればいいんだろう。私はどうやったら自分の特権を放棄できますか。やりたいことがあってもその手段がわからないことがどんどん増えてきている。今までどうやって考え方を得てきたんだろうと思いを巡らすと、やっぱりそれは映画だったように思う。映画を見よう。今は何を見るべきだろうか。調べながら、自分で何ができるか考えてみよう。